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星原昌一の西郷の足跡を歩く

第3回 西別府の抱地(かけち)

抱地(かけち)とは藩庁が、微禄の藩士に郊外に土地を与え、開墾を許し土地で「野屋敷」があった。ここに農具を置き、泊るための小さな家だったが、後には六畳、三畳、囲炉裏部屋、奥の間四畳の大きさになった。隆盛は暇を見ては弟などを連れて、百姓の仕事に励み、芋、麦、野菜を作っていた。夜明けには肥料桶を積んだ馬を引いて、肥料を運び、帰りにはさつまイモや薪を乗せて帰っていたと言われている。
現在、野屋敷への入口正面には、道を挟んで鹿児島実業高校の校門入口がある。細い道を150メートルほど入ると、休憩所が造られ木造の腰かけなどが置いてある。大きなヤマモモは西郷さんが通っていた時代からのものであり、あの木陰でキセル煙草をふかしていたことであろう。
西南の役のときは,武の屋敷は官軍が火を放ち焼けたために、家族は西別府の家に隠れていた。
野屋敷入り口の所で出会った池田栄司さん(昭和12年生)は、昔から現在地に住み西郷野屋敷の小作人をしていた。当時の事を祖父がよく話していたという。野屋敷の敷地は約三町歩(三ヘクタール)ほどあり、近所に五軒の小作人の家があった。祖父の幼いころ西郷さんは、どこの人じゃろうかと思われる汚れた姿でよく来ていた。道の脇に腰かけて煙草を吸っていたが、汚れフンドシからダッチョギン(大きく腫れた睾丸のことで、奄美に流されたときに風土病に冒されていた)がのぞいていたという。
屋敷の下段にあるダイミョウダケの林は、西郷さんが植えたいと言われて祖父が兄と二人で下から運んできて植えた。いまもそれは残っている。
下から上がるには馬堀坂を登らなければならず、池田さんも若いころは荷車を押し、武の屋敷に野菜を持って行き、帰りは肥やしを持って帰るものだった。夜になると足元は暗く、道は見えないので樹蔭に覗く空を頼りに歩くものだったが、現在は団地ができたりして様変わりしている。西郷さんは馬を引いてこられたというが、屋敷には馬小屋もなく、農作業も小作人の仕事の指図をしていたのではないかと語ってくれた。

西別府の抱地に残るヤマモモの木
西別府の抱地に残るヤマモモの木
西別府抱地跡
西別府抱地跡